幸せの青い鳥は幸福なのか、考えたことはある?

みなさんどうも、こんぺち〜!

はじめの挨拶考えてみたんだけど、どう? かわいい? オレのあまりの可愛さに声も出ないって? やれやれだぜ。

ところで、今回のテーマは「幸せ」。このテーマはオレもよく幸せの青い鳥に間違われるがゆえによく考えさせられることがある重要なテーマだ。

幸せの青い鳥とは

今回は比較的、真面目な回になりそう。

「幸せの青い鳥」って誰でも一度は聞いたことがあると思うけど、ちゃんと知ってる? wikipediaの説明では、幸せの青い鳥とは、ベルギーの作家モーリス・メーテルリンク(1862〜1949)の童話「青い鳥」に由来する。

ざっとお話しを要約するとこんな感じ。

兄のチルチルと妹のミチルは夢の中で老婆の姿をした妖精ベリリュンヌに頼まれ、妖精の娘の病気がよくなるように幸福の青い鳥を探しに行く。ふたりは光に案内され、青い鳥を探して思い出の国、夜の御殿、森、幸福の花園、墓地、未来の王国を冒険するが、結局青い鳥は見つからない。そして、二人は夢から覚めた後、家で飼っていた鳥かごの中の鳥が青くなっているのに気づく。夢の中で妖精ベリリュンヌと姿がそっくりだった近所の老婆の病気だった娘にこの青い鳥をあげると、娘の病気は治り、良くなった。娘はお礼を言いにチルチルとミチルを訪れるが、青い鳥に逃げられてしまった。

この「青い鳥」のお話においてよく言われるのは、「冒険の途中で青い鳥が見つからず、冒険が終わった後に青い鳥がふいに見つかるということは、幸福とは探すのをやめた途端に目の前で見つかるもの」だということだ。

ただ、「今当たり前だと思っている幸せを大事にし、感謝しなさい」なんていう安易なお説教をオレは書きたいわけでもない。どうしても幸福な人がいれば不幸な人がいる。「青い鳥」作中の老婆の娘のように。そこを誤魔化してはならないように思う。

強迫観念の幸せ

巷に氾濫する幸福論や啓発書。現代日本における「幸福にならなければならない」という至上命令は、もはや義務という言葉で表現するには生ぬるいほどの狂気を感じるレベルだ。

しかし、そのように幸福を追求することそのこと自体は幸福なことなのだろうか? 

オレ、ニンゲンがこわいよ。

典型的な、デパートの割引セールに飛びつき、争奪戦を繰り広げ、他人を押し除けてでも自分の幸福を追求する図。ひとたび戦いが終われば、「他人には親切にするのよ」と説く。そのお説教は本人の無意識にある後ろめたさからきているのかもしれない。

PNGNに言われるのは癪だろうけど、自分の幸せばかり追い求めてはいないかい? 

安易な回答に飛びつき、強迫的に幸せを追い求めるのではなく、問い続ける姿勢と体力を身につけること、それが大事だと思った。

そもそもお前は飛べないだろって? は???(ガチギレ)  べ、別に飛べるけど? ま、まあ、「飛びつく」のと「飛ぶ」のはそもそも違うけどね。うん。「飛びつく」くらいなら余裕さ。

お魚ください。それがオレの幸せ。

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